(聞き手)
発災時の状況と、そこからの行動を教えて頂けますか。
(大江様)
多賀城八幡小学校近くの薔薇を育てているハウスにいた時に地震に遭いましたが、ハウスの方は大丈夫だと思い、自宅に戻りました。自宅の中に入りましたが、地震直後は特に変わりなく、2階の階段の壁に被害があっただけでした。
隣の方が体が不自由なので、大丈夫ですかと声を掛けて、その後、自宅2階の階段の壁の片付けをしていました。
そうするうちに、「ザワザワザワザワ」という音が聞こえて来ました。今思えば、津波の音だったと思います。その音が聞こえて来たので表門の方に行ってみたところ、津波が来ていました。
驚いて急いで家に入ると、すぐに水が来ました。
お風呂場にあった下着の入っている入れ物を持とうと思った時に津波が来たので、急いで2階に上がりました。
そこで、ハッと思って2階から庭を見ると、隣の家にも水が来ていました。台所の窓から、隣に手伝いに来ていた男の人も見えました。家族と2人で様子を見に行くと、隣の方は窓から体を出していました。その間にも水があがってきたので、助けなければと思い、家族に「ロープを持って来い」と言ったのですが、既にロープのある1階へは行けなくなっていました。ちょうど地震の時に仕事をしていてハサミを持っていたので、代わりにシーツを持って来させて、ハサミで切って、それを7枚くらい繋いでロープを作り、2人を助け出しました。
助けたのは良いのですが、1人は体が不自由なので、2階の部屋に上げることが出来ません。どうしようと思いましたが、屋根が瓦ではなくトタン屋根だったので、今度は畳を2枚はがして屋根に置いて、3人でその人を上げて部屋に入れました。そのまま一晩か二晩、2階にいました。
ずぶ濡れになり寒かったのですが、それほど気になりませんでした。古い布団がたくさんあったので、それを掛けて寝ました。
次の日まで、まだ水がありましたから、丸2日ほど2階にいた事になります。
3日目になり、長野県の消防隊員の人たちが来て、救助艇に乗せてもらい避難しました。そして、全員で多賀城小学校に避難し、私は一晩だけ泊まりました。電気もありませんでしたし、噂で「泥棒が入るから危ない」というのを聞いたからです。
帰って来た時は水もだいぶ引いていたので、消防団分団の人間も出動しているだろうと思い、今度は市役所通りにある地区の分団の詰所に行きました。その間に、交通安全
指導隊の隊員の仲間に会いました。
私は3日目から1週間、
交通整理に出ていました。その間、隊員の仲間5、6人にも来てもらい、
交通整理をしました。
(聞き手)
その時に何か印象に残ったことはありますか。
(大江様)
緊急車両の交通だけを許可していましたが、駄目だと言っても一般の車両もかなり入って来たのを覚えています。ですが、自衛隊と消防の車を優先的にして、
交通整理をしていました。
(聞き手)
その頃は、緊急車両だけではなく、一般車両でも混雑していたのでしょうか。
(大江様)
市役所通りには水があり、被災した車がたくさんあったので、自衛隊のブルドーザーで全部押して、道路のスペースだけは確保していました。
消防の人たち以外にも、市役所に食糧を持って来る自衛隊の車も結構来ましたので、その整理をしていました。
その間に、一般の人たちも心配してずいぶん来ました。歩いて来る人も多く、自転車で来ていた人もいました。
(聞き手)
ご自宅は、ここ(薔薇を育てているハウス)からどれくらい離れた場所ですか。
(大江様)
ここから2キロくらい離れた八幡地区にあります。砂押川から近い場所ですから、浸水のひどい地域です。
私たちはずっと2階で寝ていましたが、自宅も大変な状態でした。
(聞き手)
津波というのは初めてのご経験だったのでしょうか。
(大江様)
初めてです。中学校の時にチリ地震があり、塩釜に見に行ったことがありましたが、実際に遭遇したことはありませんでした。
今回の津波は凄かったです。
外を見に行って、家の中に戻って来て、部屋に入ると、何もする間もなく、あっという間に腰まで水が来てという状態で、本当に驚きました。
(聞き手)
交通整理したり、隣の家の方を助けたりした時には、どのような事を感じられたのでしょうか。
(大江様)
津波に遭った人と、遭わない人の差がもの凄いと思いました。私たちが救助されて避難したのは3日目ですから、ずいぶん物資は来ていたようです。
しかし、私たちが避難所に行った時は、津波に遭って着るものもありませんでした。
自宅は2階が無事だったので、家族の避難した所へ自分の毛布を持っていったりしました。津波に遭った人は本当に着るものすらなく、地震だけで津波に遭わない人とは、被害に雲泥の差がありました。